わかりみ考
最近言葉が増え始めた子どもを見ていると高1の現代文の教科書に載っていた記号論の話を思い出す。
筆者名やタイトルは忘れたが、文中でヘレンケラーの自伝?から「water」のエピソードを引用して「名前をつけて理解するということは、混沌とした世界に区切りをつけて整理すること」みたいな話が展開されていた。まさに混沌としていたヘレンケラーにとっての世界は、言葉を覚えていくことで整理され、恐ろしいものではなくなっていったらしい。
それまで私は世界に対する理解のやり方をそんなふうに捉えたことがなかったのでかなり衝撃を受けた。
その後、大学生から社会人になりたての頃にかけて、またこの文章を強く思い出した。
それは、あらゆる場面で「わかりやすい」ことが評価を受けることに気が付いたから。
「これはいいアイデアだけど、伝わりづらいんじゃない?」
「面白いけどわかりにくいね」
「魅力的なんですが、上への説明が難しいかなと」
先生!上司さん!お客さん!それなら私、このアイデアを磨いて説明も上手にわかりやすくできるようにしますけど!
と食い下がっても、実はそもそもアイデア自体ウケてなかったりする。
「わからない」「わかりづらい」は「好きじゃない」「よくない」とほぼ同義で、「わかりにくいから好きになれない」こともあれば「気に入らないから伝わらない」場合もある。
反対に、あまり斬新でないアイデアだとしてもシンプルにスッキリとまとまったプレゼンができればいい評価をもらえる場面もあったように思う。
確かに、記号論の文章の説明のように、「モヤモヤとしていて捉えにくいもの」よりも「はっきりと認識できて他と区別できるもの」の方が安心できてプラスの感情に結びつきやすい。
どうやら人はわかる体験が大好きで、わからないと不安や不快感を覚えるものらしい、となんとなく理解しかけたところで産休に入った。
子供が産まれてから、再度そのことについて実感した。
この世界のことを何もわからない、まさに混沌状態の人は、家族のくしゃみに怯えて泣き、突然膨らんだ風船に怯えて泣き、眠いことが怖くて泣いた。何もわからなさすぎて、わかり方もわからないという感じ。
特に音に敏感だったので、ビクビクするたびに「ブーンの音したね」とか「船の音だね、いってらっしゃーいだね」とか「赤ちゃんエンエンしちゃってるね」と解説してあげて不安を取り除こうと努めた。
そのおかげなのか本人の才能かわからないが一歳二ヶ月現在、ようやく日常の音には慣れて不必要に怯えなくなってきた。
話せる言葉も増えてきて、覚えたものを頻繁に指差して嬉しそうに呼ぶ姿はまさに「わかる=他との区別=特別≒好き」を体現している。
乳幼児たちが皆アンパンマンに強く惹かれる理由も、「赤ちゃんは図形の中で丸が最も認識しやすい→ほとんど丸で構成されているアンパンマンはめちゃくちゃわかりやすい→好き」という論理だし。
また、言葉だけでなく、行動でもわかることを積極的に求めているように見える。
「赤ちゃんの最大の仕事は世界を解き明かすこと」という言葉をTwitterで見かけて「なるほど」と腑に落ちたほどに、乳幼児は全てのことをわかろうとして行動している。
「ティッシュの中身を全部出したらどうなる?」
「砂の味はいかがかしら?」
「この引き出しには何が入っている?」
こちらが疲れているとなんでそんなことするわけ?とウンザリするが、「こうするとどうなるか解明したかったのね」と思うと邪魔してはいけない高尚な時間のようにも思える。
しかしここで気になるのは、「赤ちゃんの大事な仕事」はいつ完了する?という点。
学生〜社会人での経験と照らし合わせると、人は一生「わかる」ことが好きで、隙あらば何かをわかりたいと感じているように思える。
だからと言ってみんな予定調和が大好きという意味ではなくて、新しいものについてはわかり方を定義し、それが理解できれば新しいわかる!になって受け入れられている。
人間はわかることを求めている。わからないと不安になる。
つまりわかりたい気持ちが幸せにも不幸せにも繋がっている。
あることがわからなくて嫌な気持ちになったときは何か他のことをわかろうとしてプラスで終えればいいのかもしれない。
この世で最初に生きるために必要なこと以外をわかりたくなった者が人間の祖先かもしれませんよ………
わかりにくい文章ですみません❗️
オチもありません❗️
バイビー👋